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60人ものノーベル賞を輩出してきたマサチューセッツ工科大学(MIT)で教鞭を執り、直接手でデジタル情報に触って操作できるインターフェース研究「タンジブル・ユーザー・インターフェース」で世界的に知られる存在となった石井裕教授。自分という存在が消えても、自分が残したものは何百年でも語り継がれる。未来のコンピューターのために、1分1秒を無駄にすることなく精一杯生きることを信条としている。
人生は短い 研究に捧げると覚悟 コンピューターの分野に興味を持ったのは、新聞社の計算機部門でプログラマーをしていた父の影響によるところが大きいと思います。当時の大学には計算機専門の学科はなく、1番近い電子工学科へ進み、大学院から情報工学を専攻しました。オリジナリティーのある研究ということに強いこだわりを持っていたので、これから伸びてゆくコンピューターサイエンスという分野は非常に魅力的でした。 電電公社(当時)に就職、16年間勤務しました。世界に通用する研究がしたいと考えていましたが、まさか自分が世界に出て行くことになるとは思ってもいませんでした。日常業務の後に独自の研究を行い、いくつかユニークなシステムを開発しました。その1つが同僚と2人で開発した「クリアボード」。遠隔地にいる2人がガラス板を通して相手の顔を見ながら、さらにクリアな板の表面に絵を書きながら話ができるシステムです。重要なのは、相手の視線がどこに向かっているのかがわかること。違う空間にいることを感じさせないシームレスなコミュニケーションを実現するツールでした。 この研究が認められ、パソコンの父アラン・ケイとMITメディアラボの創設者、ニコラス・ネグロポンテにMITメディアラボへ誘われることとなりました。世界への扉を前に迷いはありませんでした。1994年のことです。翌年採用が正式に決まった席で、ネグロポンテ所長に、「MITでは同じ研究は続けるな。まったく新しいことを始めろ」と言われ、衝撃を受けました。12年間の研究を捨てて新しいことへ挑戦しろと言う。 日本で競争とは、走るコースもルールもある場所でレースをすることですが、ここにはそれがありません。すべて自分が決めなければならない。最初は戸惑いましたが、人生は短い。ならば、これまでにないアイデアを生み出すことに人生を費やしていこうと考えました。 その後、3カ月かけて「タンジブル・ユーザー・インターフェース(TUI)」のコンセプトを生み出しました。「Tangible(触る)」のオリジナルの1つはそろばんです。子供の頃、初めてそろばんを手にした時に魅了されたあの音色、手触り。手で触れながら情報を処理・計算することができます。これをユーザー・インターフェースに利用できないかと考えたのが研究の出発点です。 また、少なからず私にきっかけを与えてくれたのは、アメリカ赴任前に訪れた宮沢賢治博物館で見た「永訣の朝」という詩の肉筆原稿でした。何度も消したり書いたりを繰り返し、その度に消し跡やら鉛筆の汚れなどで、筆者の苦悩そのものを表していました。それが文庫本では伝わってこない。デジタルの世界も同様です。デジタルの世界で人のぬくもりや感動そのものを伝えることができたら…。それが今の研究の思想に反映されています。 生を受けたことを社会にどう返すか考える アメリカに来たのが39歳。当然英語もネイティブのように発音、会話できるわけがありません。しかし、ここはMIT。世界でもトップレベルの頭脳が集まる場所です。充実したコンテンツや情熱があれば、人は耳を傾けてくれます。ただ、この研究成果によって人間社会の未来がどのように良くなって行くのか、どんなプロジェクトにも物語がないと人は耳を傾けません。深い哲学がなければアメリカでは通用しないのです。 「どうやって斬新なアイデアを生み出すのか?」とは、よく聞かれる質問です。人は皆レシピを求めていますね。だけど、それがわかったら私の仕事はないわけです。私自身も常にアイデアにつまっています。だから、とにかく苦しむ。徹底的に苦しむこと。そこからしか真に斬新なアイデアは生まれるはずがありません。 MITでは、たくさんの人と出会いました。なかには本当に天才と呼ばれる人も少なくありません。自分は彼らとは同じではない、凡人だと強く意識しました。ならば、人の2倍働いて3倍の成果をあげるしかない。それでやっと天才たちと同じレベルに立てるわけです。死ぬほど頑張らないとダメ、というプレッシャーが必要です。 どういう才能が必要かというと、まずは己の限界を知る才能です。己の未完成度を知りつつ、その性能限界をどのように伸ばそうとするかなのです。例えば、私が100メートル走を15秒で走っても誰も認めてはくれない。そこで勝負する意味はないのです。残された時間を何に使うのか?自分が生を受けたことを、どうやって社会にお返しするのかということを常に考えています。 成長し続けるなら自分にラベルを貼るな 私は自分自身を「エンジニア」とは言いません。では何かと聞かれれば、何でもない。科学者か技術者かアーティストかデザイナーか、そのすべてであることが私の仕事です。 例えば、アートとして深い造詣、わかりやすいカタチを持っていなければ、一般の人々に感動を与えられない。一方、デザインとしてもそれなりの完成度を持っていなければ、デザイナーと呼ばれる人たちに影響を与えられない。エンジニアリングがしっかりしていないと、パテントが書けない。パテントが書けないということは、スポンサー企業が商品化したい時に、商品化できない。総合芸術として、「歌って踊れるスター」でないといけないのです。 自分に何かの枠を当てはめた時点で、人は成長するのを止めてしまう。私の仕事にとって、それは致命的なこと。私にとっては人生そのものが発明の場、クリエーションの場。研究と研究以外という概念は私の中にはありません。 日本は今、飢餓感が足りません。皆、一様に同じことを追い求めている。判で押したように、無難で平凡なことしか言わない。突出したことをやろうという意気込みを感じる若者が少なくなっている気がします。だからこそチャンスなのです。機会はどこにでも広がっています。 MITで働いていると、勉強したくてもできない、勉強はおろか、食べることもままならない環境から来ている学生がたくさんいます。そういう学生には敵はありません。彼らは飢餓感を知っているから、何に対しても貪欲です。 私は研究の最終目標を二二〇〇年と決めたので、私自身が結果を見ることはできません。だから、1分1秒が惜しい。自分の肉体はいつか滅びます。自分の思想や飢餓感を受け継いでくれる次世代の学生を教育していきたい。そして、彼らに次の世代を作ってほしいということが、やはり人生の最終的な目標になるのではないかと思いますね。 自分が死んだ後に何を残せるか。100年後、200年後、世の中が変わっていても、自分の存在が残るようなことをしていきたい。若い人たちには、そういったことを考えていってほしいですね。今、アメリカという国にいて、本当に世の中に貢献するためのアイデアと情熱があれば道は開けます。ここはそういう国なのです。 日本に帰ることも1つの選択肢かもしれない。だけど、世界に挑戦することを恐れないでほしい。何万人のうちの1人でも、真剣に私のメッセージを受け取ってくれることがあれば、非常にうれしく思います。 |
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石井裕教授
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いしいひろし/
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米マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボ教授
―プロフィール― 1956年東京生まれ、札幌育ち。北海道大学工学部電子工学科、同大学院情報工学専攻修士課程修了。 80年、電電公社(現NTT)入社。95年、マサチューセッツ工科大学準教授。日本人初のメディアラボ・ファカルティーメ ンバーとなる。後に教授に。2006年、国際学会のCHI(コンピューター・ヒューマン・インターフェース)よりCHIアカデ ミーを受賞。 |
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