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世界に羽ばたけ!若人よ -1
マサチューセッツ工科大学名誉教授のチャレンジ人生
今から約四十年前、世界最先端の技 術系大学マサチューセッツ工科大学 ( M I T ) に招聘され、アメリカの有人 飛行プロジェクト「アポロ計画」に参画。 七十七歳の時に引退して名誉教授に任 命されるなど、この国で高く評価される 日本人科学者、増渕興一氏。学究と産業 の世界で多忙を極めるかたわら、同氏は 「ボストン日本人会」の会長を長年務め、 「ボストン日本語学校」も創設した。多 くの人材を育て、ボストンの日本人社会 の発展に尽くしたその功績に対し、日本 政府からは叙勲もされている。
 その前向きで果敢な人生が次世代の 若者の指針となることを願い、昨年十一 月、増渕氏の人生回想録が刊行された。 今回は、その本の出版を記念して同氏 をインタビュー。アメリカ最高学府の 一つ、 M I T でどのように教鞭をとり、 実績をあげて名誉教授に至ったのか。外 国で学ぶにあたっての心構えや人との つながりの大切さの話しを交えながら、 その魅力に富む人生を M I T のオフィ スで語っていただいた。


J マガジン: 先生は船舶、海洋構造物や 宇宙ロケットなどの部品結合を司る「溶 接」の権威でいらっしゃいますが、このラ イフワークである溶接とは、どのように出 会ったのですか?

増渕氏: 私は昭和十六年に成蹊高等学校 (旧制)に入学しましたが、弓道部の先輩 の父親である穂積律之助海軍少将が潜水 艦設計の権威として知られていました。当 時帝国海軍の造船技術が非常に高く評価 されていたことと、身近に穂積家という海 軍一家がいたことから、東京帝大の船舶工 学科に入学しました。その後退役して石川 島造船所の造船部長をしておられた穂積 氏はそれを喜ばれ、ご自宅に招待して下さ いました。その時に門にあった表札の隣に 大きく「溶接研究所」と書いてあったのに 気づき、その理由を伺ったところ「鉄を溶 かして鉄板をつなぐ溶接は、造船技術に革 命的な変化をもたらす重要な技術だ」と教 えて下さいました。それから溶接に興味を 持ち始め、卒論のテーマにしたことが以後 の人生を決めるきっかけとなっています。

J マガジン: 大学卒業後、研究者への道 を進まれますが、企業就職を考えることは なかったのですか?


増渕氏: 大学への就職希望は、「どんなと ころでも良いが、溶接に関する研究を続け たい」と書いた所、主任だった吉識教授か ら「会社はこれをやれ、あれをやれ、どこ へ行けと必ず言う。『会社のために何でも します』ではなく『私はこれをやりたい』 では雇ってもらえない」といい、「学者は 自分が正しいと思ったら、誰がなんといお うとそれをやり通す事が必要だ。君は頑固 なところがあるから学者に向いている」っ て言われたんですよ(笑)。そして「溶接 はこれからの造船技術にとって大変重要 だからしっかりやり給え。ことによると、 君は将来、重要な人物になるかもしれない な」と激励してくださいました。そして同 教授の肝いりで、東大大学院特別研究生と いうお給料がもらえる大学院生に任命さ れたのです。

J マガジン: その後、運輸技術研究所を 経てアメリカのバッテル研究所へ留学さ れるのですが、それまでの間、どのような ことをされていたのですか?

増渕氏: 研究所に入った一九四八年当時 は、戦争直後で実験の設備も揃わなかった から何もすることがなかった。そこで基礎 の勉強をして計算ばかりしていたんです。 それから外国の文献を沢山読み、論文も 五十四編出しました。そのうち英語のもの が二十です。当時、英語で報告書を印刷し たり、外国の学会誌に論文を発表すること は難しかった。それでも世界に向けて自分 の考えを発信したいという願望を強く持 ち続けていました。

あるとき溶接会社の社長から「難しい外国 の文献を読んで偉いものだ。しかしそんな ものを勉強してどうやって暮らして行け るのだろう?」といわれました。当時溶接 は職人が手作業で行っていたから、数式だ らけの勉強をしても役には立たないだろ うという意味でしょうが、世の巡り合わせ は不思議なものですね。その二十年後に、 〈溶接に関する基礎の学問をしっかりした 人〉ということで、 M I T に招聘される ことになるのですから。学問は枝葉的に広がっていくものですが、 今は先端部分ばかり勉強しなさいという 風潮が強い。しかし根元(基礎)をしっか りやることは大切です。過去の例を見ても 新しい学問はそれまで注目しなかった所 から発生することが非常に多い状態です。

J マガジン: 世界最大の独立研究機関バッ テル研究所では何を研究されたのですか?

増渕氏: ここには七つの部門があって、 その下に課があった。私は Metallurgy Department (冶金部)の Metal Joining Division (金属接続課)に属し、「ガスパイ プラインの脆性破壊に関する研究」、「原子 力潜水艦の溶接部に発生する亀裂の研究」 そして N A S A ( National Aeronautics and Space Administration) のアポロ月計 画」に携わりました。

J マガジン: かなり本格的で実戦的な研 究だったのですね

増渕氏: いきなり大研究に取りかかったわ けではないですよ。最初は理論計算をコツ コツするような仕事が多かった。それを 辛抱強く続けていたら、上司の目にとまっ たんですね。「こりゃ使えそうな奴だ」と。 原潜の亀裂問題で研究担当に任命されて、 そこで理論上の成果を出した後、この上司 が「この日本人は使える」と上層部に進言 してくれました。そこで研究所が米国防省 の「戦略的重要人物」の枠でビザを取得し てくれたのです。

J マガジン: アポロ計画という、アメリカ の国家戦略事業に参画した経緯をお話しく ださい。


増渕氏: アポロ月計画にはサターン V 型 と言う3段式ロケットを使いましたが、こ れには航空機用のアルミニウム合金を用 い、溶接で建造することになりました。と ころが溶接に関連して色々の問題が発生 したので N A S A は多くの問題に関する 研究を大学や航空会社に委託し、その結果 を取り纏める仕事をバッテルに委託しま したが、作業が複雑で立ち往生の状態に なっておりました。そこで N A S A の担 当官はバッテルの首脳部に「ドクター マ スブチを使ってはどうか?」と言って来た ので結局私が担当することになりました。
そこで私がとった方針は、〈現場主義〉。と にかく月に行く事を最優先すればいいの ですから、研究レポートのうち現場で起ら ないミスや亀裂は省き、実際に現場で起る 問題にのみ集中して解決を図りました。作 業がスムーズになって喜ばれましたよ。                             2へ続く
増渕興一氏 略歴


1924年 北海道小樽市生まれ
1919年 成蹊高等学校理科乙類卒業
1946年 東京帝国大学第一工学部船舶      工学科卒
959年 東京大学より工学博士を授与
される(第7892号)
1963年 バッテル記念研究所勤務(材料 接合部、テクニカルアドバイザー)
1968年 マサチューセッツ工科大学船舶工学科準教授
1971年 マサチューセッツ工科大学船舶工学科教授に昇格
1972年 ボストン日本人会会長
     (1981年まで)
1973年 アメリカ合衆国国籍取得
1975年 米国航空宇宙庁(NASA)より功績表彰/ ボストン日本語学校校長(1981年まで。現在は名誉校長)
1976年 日本溶接学会功労賞
1984年 三井造船(株)技術顧問
(1996年12月まで)
神鋼商事(株)技術顧問
(1997年7月まで)
1991年 日本大学客員教授
(1998年3月まで)
1995年 徳島文理大学客員教授
勲三等瑞宝章を授与される
1997年 川崎重工業(株)技術顧問
(2001年8月まで)
マサチューセッツ工科大学退職名誉教授(2005年に海洋工学科は機械工学科に吸収合併)
J Magazine Inc.2006